聖書のみことば
2023年2月
  2月5日 2月12日 2月19日 2月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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2月12日主日礼拝音声

 人の子の到来
2023年2月第2主日礼拝 2月12日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第13章24〜27節

<24節>「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、<25節>星は空から落ち、天体は揺り動かされる。<26節>そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。<27節>そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」

 ただ今、マルコによる福音書13章24節から27節までをご一緒にお聞きしました。
 24節25節に「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる」とあります。何とも異様な言葉が書き連らねられています。もしかするとこの箇所は、この福音書の中で最も暗い箇所だと言えるかもしれません。これは一体何を言い表しているのでしょうか。あまり性急に、また簡単に考えてはならないと思います。

 たとえば、この字面から「これは日食や月食や流れ星のことを指している」とは受け取らない方が良いでしょう。ここには太陽や月や星が光を失うということが述べられているだけではありません。それに続いて、まるで地上で地震が起こるのにも似て、「天体が揺り動かされる」、即ち天の存在自体が揺さぶられ崩壊してゆく様子が語られているのです。ここで主イエスが教えようとしておられるのは、今私たちが生きているこの世界が究みのところまで崩れてしまって、世界が根底から突き崩されてゆく「終わりの出来事」です。
 ある説教者は、この宇宙規模での天地の動揺を、土台の根底からすっかり白蟻に食べ尽くされて中がスカスカになった家が崩落する様子にたとえています。白蟻に食い尽くされて手の施しようもなくなった家が、何かの拍子にあっという間に崩れて形を失ってしまうのに似て、今、私たちが暮らしているこの世界も人間の罪が次第に大きく深刻になり、遂に崩れ去る時が来るということを、主イエスは語っておられます。
 この世界は、元々は神が喜びながら一つ一つをお造りになり、「見よ、これは極めて良い」とおっしゃってくださったはずの世界であるのに、その世界がすっかり台無しになってしまう時が来るのです。今はまだ、神が忍耐をもってこの世界を支えておられます。けれども、その忍耐の境を越えて人間の罪があふれ出し、もはやどこにも善いこと、有益なものが見当たらなくなり、神が見切りをつけこれを放棄してしまわれると、一切が手の施しようがなくなってしまうのです。その時には「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる」、それは、太陽も月も星も光を失うということです。その結果は、この世界がすっかり暗闇に包まれてしまうことになります。この地上の世界から完全に光が失せ去り、そして、地上の上に広がっているはずの天も身を震わせ、天としてのあり方を失って崩れ落ちてしまうのです。主イエスは弟子たちに、「まことの終わりの日とは、そういうものである」と教えられました。弟子たちがこれまでのところで心配していたような戦や地震や飢饉や疫病、あるいは、神の民がきっと経験させられる迫害や誘惑といった患難が終わりではないのです。本当の終わりは、そのような苦難が全て起こったその後に、すべての悪が揃ったその後にやって来ます。その時には、地上の秩序も天上の秩序も一切のものが失われ、ただただ暗闇が辺りを覆うことを、主イエスは教えられました。

 ですから、24節25節の言葉は短い詩のようにも聞こえる言葉ですが、ここに教えられている内容は恐るべきことです。この世界が完全に駄目になってしまう、そんな時があり得ることを、主イエスは教えておられます。語られている事柄を確認してみますとゾッとするようなことを主イエスはお語りになっていますが、どういう目的でこのように暗い未来予測を弟子たちにお語りになるのでしょうか。すべての事柄が駄目になってしまわないように、弟子たちを叱咤激励して、「あなたがたは、この世界で努力しなければならない」とおっしゃるのでしょうか。あるいは、4節で弟子たちがこの世界の滅びについて心配し質問したことに答えて、「世の中がすっかり完全に駄目にならないうちは、世の終わりは来ない」とおっしゃって、弟子たちを慰め安心させようとしておられるのでしょうか。そのどちらでもありません。
 主イエスが弟子たちに伝えようとなさる中心の事柄は、次の26節27節に語られています。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」とあります。
 人間の罪によってこの世界がすっかり駄目になり、もはや手の施しようがなくなり人間の手に負えなくなってしまう時、「そのとき」に、「人の子がやってくるのを、あなたがたは見るようになる。きっとそうなるのだ」と主イエスはおっしゃいます。地上がすっかり暗黒に履われ、天もまた揺さぶられて形を失い崩れ去ってゆく時、一切が過ぎ去り、終えてゆくけれども、「その時こそ、人の子が来てくださる時だ」と主イエスはおっしゃるのです。

 この「人の子」という言い方は、旧約聖書ダニエル書7章13節に出てくる言葉を借りているのですが、実は、主イエス御自身が「人の子」です。ダニエル書7章の「人の子のような者」について述べられた記事については、今年の元日礼拝でお聞きしました。ダニエル書7章は、ダニエルが眠っている時に夢に現れた幻の話でした。天の風が吹きつけ大勢の人間の感情が波立つ大海の深みから、4頭の大きな獣が這い上がってきます。この4頭の獣はそれぞれ姿が違い、また強さも違っていました。一見、幻想的にも思える幻なのですが、この幻には意味が隠されていて、4頭の獣たちは、次々に地上で興亡をくり返した巨大な帝国を表していました。ダニエルの見た幻は夢の中のおとぎ話ではなくて、まさに、次々と国が興っては互いに死闘をくりひろげながら、人間の罪のために多くの人々の血が流されながら滅んでゆく、そういう世界の現実を表していました。
 しかしそういう幻の最中にダニエルは、この世界には、ただ単に巨大な獣のような帝国が戦い続ける現実だけではなくて、なお一つの現実が生じているということに気づかされるのです。神を表す「日の老いたる者」が、一人の「人の子」のような人物をお立てになり、あらゆる権威と威光と王権がその人物に授けられる幻を、ダニエルは示されました。地上にあっては、巨大な人間の勢力がその罪のために互いに争い荒廃をくり返します。しかし父なる神がまことの権威を与えられるのは、そのように互いに荒ぶり、相手の上に立とうとする人間の勢力ではなくて、神の御前に一人進み出て、神から権威と威光と王笏を受ける、そういう平らなあり方をとる「人の子のような者」です。

 主イエスは、旧約聖書の中に現れるそのような人の子のイメージを用いながら、「まことの人の子であり、神の憐れみと慈しみを人々にもたらして下さる方がこの世界を訪れ、人々と共にいるようになってくださる」という約束をお語りになりました。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」と、そうおっしゃいます。
 くり返しになりますが、この「人の子」は主イエス御自身です。この世界が人間の罪によってすっかり行き詰まり破局を迎える時、その時には、主イエスは、御自身が本来の栄光に輝き力を帯びてやってくることになるとおっしゃいます。この力は神の力ですから、あらゆるものを創造し、命を与えることがおできになります。罪の中で滅んでゆく他ない人間たちにも、人の子は御心であれば新しい命を与え、生きる者として下さいます。そういう力と権威をお持ちの方として、また、辺り一帯がすっかり光を失い真っ暗闇となっているところに、栄光を持ち運び明るく照らし出して下さる方として、この地上を訪れて下さるのです。

 主イエスが再び地上においでになる時には、「雲に乗って来られる」とも教えられています。「雲」は、私たち人間が決して近寄ることのできない神の気高さと清さの象徴です。神がまことに清らかな方であり、一方、人間は罪を抱えているため、もし私たち人間が直接神にお目に掛かるようなことになったら、その時、人間は神の清さに耐え切れず滅んでしまうことになります。旧約聖書の中ではくり返し語られるのですが、そういう弱い人間を保護するために、神は、御自身が人間の前に姿を現す時には、雲や炎の中に御自身をお示しになって、直接人間が神の姿を見ることがないように配慮して下さるのです。出エジプトの時に、エジプトを脱出した民が神に導かれて荒野へと逃げる時、神は「昼は雲の柱、夜は火の柱」の中にあって民を進むべき方向に導いてくださったのですが、その雲の柱が一例です。あるいは、神が律法を与えるためにモーセとシナイ山でお会いになった際に、シナイ山がすべて煙に覆われたというのもその一例です。神は御自身の栄光を人間が直接見ることがないように配慮して下さるのですが、その時と同じように、主イエスが、本来の御自身の力と栄光の輝きを帯びておいでになる時には、神と同じ雲の内にあって、来て下さることが語られています。主イエスはまばゆいばかりの輝きをもって私たちを照らし出して下さり、しかし、決してそのことで私たちが滅びないように配慮をもって私たちの世界を訪れて下さるのです。

 この世界にいつか滅びが臨むのではないかと心配する弟子たちの不安を、主イエスは否定なさいません。人間に由来するものは決して永遠ではないからです。どんな人間も神のように清らかではなく、必ず罪を宿しており、そのために人間自身も、人間の手の業も、たとえどんなに好ましいように思えても、長い時間の流れの中では罪の歪みとひずみが高まって、いずれ必ず形を失い壊れてゆくことになります。
 4節で弟子たちが、この世界の崩壊とその予感を覚えて心配して主イエスに質問した時、主イエスは「人に惑わされないように気をつけなさい」とお答えになりました。あの時、主イエスが問題になさったのは、この世界はいずれ必ず過ぎ去っていくけれども、その中で、「決して過ぎ去ることのない神の真実な慈しみに留まり続けることの大切さ」ということでした。そして今日のところで、全てが滅ぶ時にも「人の子がきっと訪れてくださる。だから、そこから離れないように。人の子の希望から引き離されてしまわないように気をつけなさい」と主イエスはおっしゃっているのです。

 人の子である主イエスが再びおいでになる時には、天使たちを遣わして、「地の果てから天の果てまで、御自分の民を四方から呼び集めて下さる」と約束されています。「地の果てから天の果てまで」とは大変珍しい言い方です。普通は「地の果てから地の果て、天の果てから天の果て」と言われます。私たち人間が天の果てで発見され呼び集められるというのは、普通なら考えにくいことです。私たちはこの地上に生きていて、天上に属する者ではないからです。しかし主イエスが来てくださる時というのは、非常事態です。私たち人間の罪のためにこの世界の一切が形をなさなくなって失われていく、そして天もまた揺すぶられて形を失い地の上に崩落して、もはやどこが天でどこが地上か、その区別すら分からなくなってしまっている程の、痛ましく破壊され崩れた世界の様子が語られています。2月6日にトルコで大地震がありました。大勢の大人と子どもたちが崩落した建物の下敷きになって救いを求めている映像を御覧になった方も多いだろうと思います。この世界が人間の罪によって滅ぶ時は、しかしあの比ではありません。天も地も一切が崩れて瓦礫の山と化すのです。しかしそのようなところに主イエスが来てくださり、助けてくださるのだと語られています。すべてが崩れ去っていくというような将来が決して起こらないとは、主イエスはおっしゃいません。人間の罪による惨めな破局はあり得ることなのです。けれどもその時に、すべてが崩れ滅んでしまうのではなくて、「そこに人の子がやって来てくださる。そこにこそ希望がある」ことを、主イエスは教えられるのです。
 弱い人間が瓦礫を取り除くのではありません。天使が神の力を帯びて、主イエスを手伝いながら私たちを救いへと導きます。今私たちが生きているこの世界が滅びないことが救いなのではなくて、たとえ深刻な破れや痛みがあり、一切が崩れ去ることがあるとしても、そこに、命をもたらして下さる力ある方がやって来て下さり、天使たちに命じて一人ひとりを救出し、命を得させて下さるのです。そして、そこに救いがあります。私たちが滅び死んでしまったとしても、なおそこに、死を超えて新しい将来を与え、命をもたらしてくださる力ある方が私たちの許を訪れてくださいます。その希望を見失わず、離れないようにと、主イエスは教えられるのです。

 最後に、もう一つのことがあります。人の子が天使に命じて廃墟の中から命を救い出し、生きるようにして下さる希望を知らされる人は、今の地上の生活において、他の人々とは少し違った生き方をするようになるのです。
 他の大勢の人々は、今生きている自分の暮らし、あるいは自分自身の今の生活がずっと続くと思えばこそ、努力して今の生活を何とか続けてゆこうと試みます。あるいは、今の暮らしを更に良いものにしようと努力します。それは、今の暮らしや自分自身の命、また周囲の人々との関わり方が変わらないと思っているから、そのように行動するのです。けれども、そのように生きている時には、自分の今の暮らしが続けられないと分かったり、自分の命の長さに限りがあると宣告されたりすると、目当てを失うようになります。どんなに努力しても無駄だと思う投げやりな気持ちに捕らえられてしまうのです。
 しかし、「人の子がきっと、わたしのもとを訪れて下さる」と信じるところでは、生き方が変わります。それを信じる人は、今の生活にしがみついて、あるいは自分自身にしがみついてそれを守ったり、より良くしようとする代わりに、「救い主が来てくださり、神の愛と慈しみが与えられ、それに支えられ守られている」ことを知る中で、自分自身もまた、そのことの喜びと感謝を生活の上に表してみようという努力が始まるのです。もちろん、私たちの今の生活がどれだけ続くのかは分かりません。自分の命の長さということも含めて、私たちには明日のこと、未来の事柄は見通すことができません。
 けれどもたとえそうだとしても、私たちに死を超えて命を与えることのおできになる方が、絶えず私たちを配慮し、守り、持ち運んで下さっています。そのことを知る時に、人生は自分の意思や思いを実現するステージではなくて、命を支え持ち運んで下さる方に感謝を表して歩む場所へと変えられてゆくのです。

 そういう生活を知る人は、たとえ肉体が弱っても、なおそこで、与えられた日々、時間を感謝して生きることになるでしょう。私たちがもはやそこから抜け出せないほどに弱りながらも、しかし、「今日の自分にできること、許されていることを精一杯に行って生きてゆくことができますように」と祈りながら生きていくのではないでしょうか。そしてまた、私たちが心に憶える大切な人たちのことを祈りながら、生きていくことになるのではないでしょうか。そのようにして私たちは、今自分に与えられている命の隅々にまで、神からの力を頂いて精一杯に生きる者とされます。

 「終わりの日に、人の子が私たちを訪れてくださる」、そのような希望があることを、主イエスは弟子たちに教えてくださいました。そして私たちもまた、「この希望から決して離れないように。あなたは神さまから覚ええられ、人の子に属する者とされている。あなたは神さまから力をいただいて、今ここで生きるものとされていることを覚えるように」と呼びかけられています。お祈りを捧げましょう。
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